SEALDs(シールズ)が8月15日にその活動を終えた。彼らの言葉は解散だった。学生が、SEALDsというグループを2015年5月に結成して、活動を続けてきた。SEALDsの前身は、SASPL(サスプル)というグループで、2013年12月に結成された。
彼らは、これからはSEALDsとしてではなく、個人としておのおのの活動をしていくといっている。
彼らの活動がどのようなもので、どんなことを主張してきたのかを知らなくても、テレビや新聞などに取りあげられることもあったことで彼らのグループ名を聞いたことがある人もいるだろう。そのことが示すのは、それほどのことがあったといえよう。
彼らが一体何を成し遂げたのかといった側面で彼らの活動を評価しようとすると、彼らが何を主張して、どんな活動をしてきたのかを知らないと評価しにくいだろう。彼らが、研究者として研究を発表したわけでも、言論人として他の言論人と違う何かを主張したわけでもなかろうし、創作物をつくる作者としての卓越した固有性を有したわけでもなかろう。彼らはSEALDsというグループとして活動してきた。もちろん、それぞれ個人としてのおのおのの活動もその間あったことだろう。
彼らは、社会的に注目される出来事になったのだ。彼らの言葉を引用すれば、彼らは「SEALDsというムーブメント」を引き起したということになる。その影響力がどのような影響を持ったかということを評価するのは難しいが、影響力を持ったことは間違いない。
彼らのことと、彼らの活動を振り返った時に、じゃあ、彼ら、SEALDsの活動とは何だったんだろうということになろう。彼ら、そこに集った学生は、「民主主義ってなんだ」といって、路上に飛び出して、活動を発展させていった。
率直にいえば、彼らの活動とは、彼らの民主主義体験だった。そう考えると、彼らのことが分かりやすくなろう。彼らの民主主義体験を通して、社会的に、政治的には評価を後に送るとしても、彼らが影響力を持った。彼らがおこした出来事とは、彼らの民主主義体験を通して、彼らの民主主義体験が影響力を持ったということだろう。
「民主主義って何だ?」「これだ」
というコールをSEALDsは国会前でしていた。
この言葉を聞いて、彼らのいう民主主義とは、彼らがしているこのことをいうのかという謎が彼らをみるといつも私の心の中にあった。
彼らを最初に見かけたのは、彼らが国会前でデモンストレーションをしている姿だった。私は国会前にいって、彼らの活動を直接見たわけではなく、ビデオ映像におさめられた彼らの姿だった。
彼らがいう民主主義とは、彼らが国会前でする活動を示していっているのかと悩んだりもした。
SEALDsの活動を見かける度に、これが彼らのいう民主主義なのかという言葉が私の中にはあった。
その後、彼ら姿を国会前だけではなく見かけることになった。市民活動家の横にいる彼らの姿を見かけた。大学の研究者の横にいる彼らの姿を見かけた。そして、国会議員の横にいる彼らの姿を見かけた。いや、彼らの横に、そうしたいろんな人びとがいた。
SEALDsの中心的なメンバーの一人といってもよいだろう、奥田愛基さんは参議院特別委員会の公聴会に公述人としてよばれ、意見陳述を求められた。
彼らのグループ、SEALDsには、リーダーはいないそうだ。物事は合議的に決めてきたようだ。
彼らの活動には、彼らが若いからの青臭さがあり、彼らが若いからの感性の鋭さがあったに違いない。彼らSEALDsの活動が発展していく度に、それを彼らより歳を重ねている我々は意識したのではないか。
SEALDsの名前や彼らの活動を見かける度に、どこが新しいのかと考えた者はいないだろうか。彼らは、今までの市民活動の中に、新しい息吹を持ち込もうと企てたのだ。
〈参考〉
SEALDs
SEALDs KANSAI 解散記者会見 2016.8.13(IWJ)
SEALDs (自由と民主主義のための学生緊急行動)解散記者会見2016.8.16(IWJ)
市民発の政治「始まったばかり」 解散シールズ、自然体の言葉で(東京新聞)
SEALDs解散、選挙を変えたか 続く市民運動に期待(朝日新聞)
学生団体「SEALDs」が解散―安倍政権による改憲を防げるか?ボールは市民と野党の側に(志葉玲)
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